この登録はUNISCO公認の世界遺産になります

もしも、あの時あの人が・・・もしもの世界で、もしもの歴史を考えてください。
架空の人物でも、パラレルワールドでは実在の人物です!
現在・過去・未来・宇宙・別世界、どこでも登録可。
そして、宇宙に誇る新文化遺産として残しましょう!


登録番号 文化遺産名称 記念品など 場所 文化遺産解説 付帯施設・近辺観光
No1 織田幕府
織田城跡地
岐阜提灯
和傘
岐阜市 織田信長が本能寺の変を危くのがれ、後に天下を統一。
400年続いた織田幕府の礎を築いた織田城の跡地です。
岐阜(中心という意味)は、織田信長により命名されました。
今は、岐阜公園となり、市民の憩いの場所となっています。
長良川鵜飼
長良川温泉
No2 明智小五郎探偵事務所 ビージーバッジ
怪人20面相なりきりセット
東京 昭和初期に活躍した探偵、明智小五郎の探偵事務所です。
昭和初期の建築物の特徴をよく現しており、世界遺産に登録されました。
その活躍は、助手の江戸川乱歩の手によって、ドキュメンタリーになって発表されています。。
展示品は、人間椅子となっていた実物の椅子、白髪鬼の髪の毛など、事件にまつわる物も展示されています。
現在、この事務所を管理されている老人は、少年探偵団の小林少年、その人です
なを、隣接する「怪人20面相記念館」は、怪盗であるため世界遺産に登録は無理のようです。
少年探偵団本部跡地
No3 とらや 草団子 葛飾柴又 作家の車寅次郎氏が、自らの露天商の体験や家族の話を小説にした「男はつらいよ」の舞台になった、車氏の実家です。
「とらや」が老朽化のため、取り壊しになりそうになった時、昭和の建築様式や人情まで記憶に留めようと、帝釈天商店街の人々により、世界遺産運動が起こり、めでたく昨年文化遺産に登録されました。
車寅次郎氏の体験的小説「男はつらいよ」は、後に渥美清の主演により映画にもなりました。
帝釈天
No4 できるかなゴン太君の剥製 のっぽさんのサイン(複製) 東京
某放送局内・秘密の部屋
教育番組「できるかな」に出演していたゴン太君の剥製です。
ゴン太君は、のっぽさんと共に番組出演していましたが、着ぐるみだと思われていました。
しかし番組終了後も、着ぐるみから出てくる人物を誰も見た事もないので、不信に思ったのっぽさんが、ゴン太君の後をつけた所、着ぐるみではなく本物の生物であることが発覚しました。
ゴン太君は、今世紀最大の未確認生物としてタイム誌の表紙をも飾りました。
昨年、寿命がつきゴン太君は他界しましたが、その功績と思い出を残すため、剥製にされ世界遺産に登録されました。
のっぽさん美術館
No5 宮本武蔵神社・首塚 五輪の書(複製)
お通セクシー写真集
巌流島 佐々木小次郎が、巌流島で宮本武蔵の首を切り落とした場所。
武蔵の首は、タタリを恐れた島民により丁重に葬られ「宮本神社」として、末永く崇め奉られました。
佐々木小次郎は、武蔵が決闘の時刻に遅れ苛立っていましたが、南蛮渡来の珈琲を飲み、気を落ち着け勝利したと言い伝えられています。
巌流島では、珈琲は神聖なお茶として、珍重されているそうです。
巌流島海水浴場
No6 卑弥呼化粧品跡地遺跡 復刻・卑弥呼化粧品 邪馬台国跡地 邪馬台国の卑弥呼が代表になって作られた化粧品会社の跡地である。
朱泥や鉛や銀を主とした化粧品で、全世界に輸出していたらしい。
また、漆塗りの櫛などの小物も扱っていたようだ。
邪馬台国の財政の90%が卑弥呼化粧品の収益で補われていたため、邪馬台国のほぼ全土が化粧品工場のようになっていた。
この遺跡を発掘した学者は「最初は、ヤラセではないか」と思ったほどらしい。
この遺跡では、毎年「卑弥呼祭り」が開催され、「卑弥呼コンテスト」では、タカピーで傲慢な美人を一年間、女王卑弥呼として崇めている。
原人偽造矢じり跡地
No7 はに丸&ひんべえ発掘跡地 はに丸&ひんべえストラップ 某国営放送局近辺 某国営放送教育TVにて放映されていた「お〜い!はに丸」が、弥生時代の遺跡から発掘され、現代に甦った場所です。
局では、本物の埴輪生物である事を隠していましたが、近年になって実際の生命体である事が確認され、発掘された跡地を世界遺産に認定しました。
お供の「ひんべい」も同時に発掘され、しゃべる馬型埴輪生物として「エド」と共に有名な馬です。
この地を世界遺産にすために、神田君やスミレちゃんやおじさんは、街頭署名100万人を集め日夜奮闘いたしました。
はに丸系前方後円墳
No8 ジュリアナ東京跡地 ジュリ扇・お立ち台・ボディコン 東京・芝浦 1991年、東京・芝浦の倉庫跡に英国の「ジュリアナ」が出店し、一斉を風靡したディスコ。
「日本人の女は金払ってパンツ見せるのか!?」と諸外国にバカにされながらもお立ち台で露出しまくる女性は世の男性を大いに楽しませた。
残念ながらブームが下火になり1994年8月に閉店となるが、今では見る影もなくなった元ジュリアナ・ギャルや一部の熱狂的な男性ファンによって文化遺産申請がなされ、めでたく登録された。
館内には元ジュリアナ・ギャルたちが、もう2度と着れない体型になり持て余し寄贈したボディコンや腰を振りすぎてゴムが伸びきってしまった下着、ジュリ扇等が多数展示してある。視聴覚コーナーでは「どれを聞いても同じような曲調で必ずどこかにジュリアナトキオ〜!!というフレーズのはいる」ジュリアナ・ナンバーが視聴できる。
特になし
No9 ツインテール養殖場 ツインテール丼、ツインテール握り寿司、ツインテールステーキ、他 東京 某特撮番組で有名な地底怪獣ツインテール。
その肉は「エビのような味がしてとても美味しい」と食通の間では昔から有名であった。
本来は巨大宇宙人の助けを借りなければ手におえないほど狂暴な怪獣だったが、最新バイオテクノロジーによって従順かつ成長の早い新種を生み出すことに成功。
東京の巨大養殖場で大量生産されたその甘美な肉は現在世界中の人々の舌を楽しませている。
 養殖場職員たちの悩みの種は、養殖ツインテールたちの匂いに惹かれてやってくる天敵グドンの襲撃。一応防御用の金網を張ってはあるがほとんど役に立たないので、たいていの場合は巨大宇宙人にSOSを求めることになる。
昔はボランティアで戦ってくれた彼だが最近では資本主義の色に染まったか金品を代償に求めるようになり、そのコストも馬鹿にならないという。
グドンよけ金網
No10 妙法蓮華タワー 名物に、玄米に塩だけかけた”賢治定食”
東京、芝 1926年、党首・宮沢賢治に率いられ、新しい農業のあり方や仏教理論に元ずく国作りを訴えた羅須地人党は、国民の圧倒的な支持により、政権を握った。
結果、日本は農業と「御仏の慈悲の心」を中心にすえた穏やかな国に生まれ変わった。
そのまま不況をしのぎ、第2次世界大戦も「慈悲の心」によって中立を貫いた日本は、決して政治・経済的に大飛躍はしなかったものの、国民は皆、雨にも負けず風にも負けず玄米と味噌と少しの野菜を食べ、決して怒らず、農業を基本にした敬虔な仏教国として、外国からはデクノボウと呼ばれつつも、物静かな成熟を遂げた。
それを記念して、昭和30年代、東京芝に建てられた高さ333メートルの電波塔が妙法蓮華タワーである。これは現在でも東京で一番高い建築物であり、強力な電波で世界各地に各国の言葉で”妙法蓮華経”を放送している。
特になし
No11 コンダーラ じゅうたんのゴミを取るコロコロ 高校のグランド 巨人の星を目指す高校球児が根性を付けるときに「コンダーラ」を引きながら荒野を歩き続けた、その奴隷のような生活が後の世には、「アニメ化」されて一世風靡した。
世界遺産に申請するにあたって、木陰の美女を建立することが「梶原一騎氏」から要請されたが、個人の嗜好に左右されては、「コンダーラ」を引き続けた人々の汗と涙が「マンガ」になるとして、却下された。
「コンダーラ」を実際に目の前にすると、その巨大さと重量に圧倒される、今では何人なりと、動かせない、多分地球と同体ではないかと考えられる。
「コンダーラ」の語源は「思いこんだら試練の道を♪」から、らしい。(重いコンダーラ)
特になし
No12 デル・カサ・オリエンテ・ファミリア・霞ヶ関 特になし 霞ヶ関 昭和30年代、日本は空前のラテン音楽ブームにあった。町のいたるところで、ラテンのヒット曲が流れていたものである。
そのブームは、プレスリーが、ベンチャーズが、ビートルズがやって来ても終わらなかった。
事は音楽のみでなく、全日本人が骨がらみラテン文化に魅せられてしまったのである。
サラリーマンはラテン鬚を生やし、ソンブレロをかぶって会社へ向かい、女性たちは当たり前のようにフラメンコを習った。
あまりの国民の熱中振りに、ついに政府も国民にラテン名での戸籍登録を認めざるを得なくなった。
フランチェスコ中村やセルジオエンドリコ高橋といった戸籍上の本名を持つ、純日本人が大量発生したのである。
かって一種の国技とまで言われたプロ野球は人気薄ゆえに廃止され、そのトップ球団だったジャイアンツのフランチャイズ、後楽園球場の跡地に数万人収容の”東京ドーム”なる巨大な闘牛場が作られた。
湘南にドライブに来た若者たちは「湘南海岸の風景って、なんかメキシコ湾に似てるよね」と笑顔を見せる。
そしてついに悪乗りした日本人は、霞ヶ関に官庁街としてサグラダ・ファミリア教会のまがい物を、本家より早めに完成させてしまったのだ。
その日、日本は国際的にも”ラテン系の国”と公認をされる事となった。
ブエノス・ノーチェス東京!ソラメンテ・ウナ・ベス。
特になし
No13 ゴジラの足跡 ゴジラ型イカとっくり 静岡県熱海市、曽我浦海岸 ゴジラが日本に最初の上陸の際に残した足跡は、その場所に工業地帯として開発の手が入ってしまったため残されていないが、その後の上陸時、海浜に建つ観光施設、熱海城を襲った際につけた足跡は、そこが観光地の海水浴場だったため、周囲をコンクリートで固めて保存された。
固めついでにそこを”冬でも泳げる温泉プール”にしてしまったのは、いかにも下世話な観光地的処置であり、遺産としての価値を著しく下げて、マニアの嘆息を誘っている。
なお、近辺施設である熱海秘宝館に展示されている巨大な”ゴジラのペニス”は、まったくのでっち上げであるため学術的価値はなく、団体観光客のオヤジ達を喜ばせる役にしかたっていない。
文化遺産としての認知ギリギリの猥雑さが漂う、やや悲しい遺跡である。
熱海秘法館。
14 平面世界  平面地球儀 第7階層宇宙 太古、人類は、自分たちの住んでいる世界が平らな一枚の大地と信じていた。
世界の果てでは、海は滝となり、虚空に向かってどうどうと流れ落ちていたのだ。
なぜ、そのように考えたのだろう。その理由は、太古の人々は、本当にそのような世界に住んでいたからだ。その当時、世界は平らな一枚の板だった。太陽や星たちは、月と一緒に地球の周りを回っていた。
が、その後、物理学や天文学の進歩により、世界が平らであるのは物理的に矛盾があると気が付いた人類は、水力式次元転送装置を用い、それまで住んでいた世界を
脱出、現在、我々が住む、この球形の地球に移住したのである。
この「平面世界」は、太古の人類によって異次元に置き忘れられた”使い古しの世界”である。
人間に見捨てられたこの世界は静けさに満ち、そこでは地球では既に絶滅してしまった動物たちが平和な生活を送っている。この世界はどこまでも平らで、その果てで海は滝となり、どうどうと音を立てて、虚空に流れ落ちている。
マンモス、ドードー鳥など、絶滅種の動物と親しめるサファリパーク
15 神風灘 写真集”日本の思い出” 日本列島周辺 第2次世界大戦末期、苦戦を続ける大日本帝国は、全国の宗教団体を糾合し、心霊戦争突入を命じた。
はるか昔、蒙古の軍勢の侵入を2度にわたって防いだ”神風”が、もう一度、皇国を危機から救わんがために吹く事を、宗派を越えた集団祈祷によって招来しようと試みたのである。
そして・・・1945年8月3日、”神風”は本当に吹いた。
いわゆる”台風”の数倍の規模を持つ強風帯が日本の周囲に同時多発し、まるで日本全土を守護するかのような形に取り囲んだ。
執拗に繰り返されていたアメリカ軍の日本本土への空爆も、その強烈な風雨に阻まれ、不可能になった。
とにかく、どのような方法を用いても日本列島に近付くのさえ不可能な状態になってしまったのだ。
第2次世界大戦は、なんとも締まらない終結を迎えた。最後まで抗戦を行っていた日本が、不可解な嵐の中に”鎖国”してしまったから。
世界中が戦後の復興を終え、新しい道を歩き出しても、日本列島を覆った嵐は止む事は無かった。
幾度か、嵐の内にある日本と交信しようという試みも行われたが、返信は無かった。
ただ、人工衛星による写真撮影によって、わずかに発生する嵐雲の切れ目から、日本人たちが上げる夕餉の煙などが観測され、彼らが、その異様な環境下でも、どうやら生活を成り立たせているらしい事が窺い知れるのみだった。
いまだ、風は止むことなく吹き続けている。近隣の高麗民国や中華公国の船乗りたちは、近付くことも叶わぬ、その広大でいつ果てる事も無く吹き荒れる嵐に覆われた辺りを、畏怖の念をこめて”神風灘”と呼んでいる。
スリル満点の暴風雨クルーズ
16 星に住む人々 彗星をかたどった氷砂糖菓子 太陽系辺境 明治四十三年は、ハレー彗星の接近で世界中が恐慌をきたした年だった。
この年の四月二十日、ハレー彗星は太陽に近付き、五月二十日には地球に最接近する。
その時、彗星の引力の作用により大災害が起こるだろう、とか、地球の大気が吸い取られてしまい、地球上の生物は皆、呼吸が出来なくなって死ぬのだ、いや、彗星の尾の毒ガスが地球を覆う、いやいや、地球と衝突するのだ等々のデマが乱れ飛んだ。
これに恐怖し、世を儚んで自ら命を絶つ人まで出たという。
本気の、あるいは面白半分の人々の末世騒ぎのうちに、やがて彗星はやって来て、そして何事も無く去って行った。
何事もなかったのであるが、彗星最接近の夜、世界のあちこちで突然の行方不明になった数人の人々がいた。
東京の金貸し業の老婆、上海の花売り娘、ロンドンの警察官、ロシアの徴税官など、互いに何の関連性もない人々だった。
ただ一つ、その人々が彗星の接近を非常に恐れていた、という共通点があるにはあったが。
それらの事件は、互いに無関係の、原因不明の失踪として片付けられたのだが、人類が宇宙探索に本格的に乗り出した時代となり、その人々は、意外なところで発見される事となる。
人々は、太陽系を遠く離れた軌道上を巡っていたハレー彗星の氷結した地表に、凍りついた遺体となって閉じ込められていたのだ。
その理由は、いまだに解明されていない。その数名の人々の彗星の接近を恐れる心が、何らかの不可思議なエネルギーを発生させ、恐怖の元である彗星本体に彼らの体をテレポーテーションさせてしまったのだという、あまり科学的でない説明くらいしかしようがなかったのだ。
原因不明のまま人々は”星に住む人々”と綽名され、彼らの眠る氷塊は太陽系辺境を巡る宇宙ステーションに固定された。太陽系観光の人々は、まるで宗教上の奇跡を見るようにその場を訪れ、氷の中に眠る人々に見入った。
氷の中の人々の顔は、安らかだという。
辺境星区の寒々とした星空利用の天然プラネタリウム・ショー
17 伊豆熱川バナナワニ園聖教国宮殿跡 ワニ型チョコバナナ 伊豆熱川バナナワニ園内 70年代後半、伊豆熱川のバナナワニ園において起こった奇妙な”宗教国”の独立運動は、今も多くの人の記憶に残っているだろう。”バナナワニ主義”なる奇々怪々な教義?を掲げた教祖、”芭蕉和邇四郎”のカリスマ的人格に率いられた宗教集団、”バナナワニ教団”が本来は娯楽施設のワニ園内部に武装して立てこもり、宗教の自由を訴えて日本からの独立を宣言したのである。
教団員の独立への意志は固く、外部からの説得も空しかった。この騒動は、収まる事がないかに思えたが、やがて、篭城によって食糧に困窮した教団員すべてが、古くなったバナナを食い過ぎた結果の食あたりで倒れて病院に収容され、そのまま教団は解散という喜劇的結末を迎えた。
すべては、南国の楽園になぞらえた作りの”バナナワニ園”の暖房施設のぬくもりに誘われ、施設内に住み着いたホームレスだった教祖、和邇四郎の「ワニのように這い、バナナのように茂れ」なる、口からでまかせとしか思えないムチャクチャな”教義”が始まりだった。
それを、なぜか、少なからぬ人が無批判に受け容れてしまったのは、60年代末に燃え上がった”政治の季節”の、70年代に入ってからの急激な失速により、人々の心に生じた空しさに、その奇矯な教義が、まぐれ当たり的にピッタリと入り込んでしまったから、とでも解釈するしかないのだが。
ワニ園の片隅に建てられた、金銀の絵の具を塗りたてた段ボール製の”宮殿”の姿は、廃棄する手間をかける価値さえない、と言わんばかりに放置されたまま、人間すべての愚かしさを象徴するような空しさを漂わせ、そこでただ風に吹かれている。
ワニ園見学


番号 新世界遺産登録者名
1〜7 酒井(管理人)
たぬきさん
鉄の目さん
10 マリーナ号さん
11 レオさん
12 マリーナ号さん
13 マリーナ号さん
14 マリーナ号さん
15 マリーナ号さん
16 マリーナ号さん
17 マリーナ号さん